資料による個人の見解は、書物によって真逆の立場を取ることもしばしばで、それをどう消化し活用するかという点に煩悶する所ではあります。
ビスティッチの『列伝』も然り、クルーラスの著作然り、コジモやロレンツォに関する大まかな捉え方は共通していても、やはり個々の感情や好みの差なのだろうと思う部分が見えてきます。
ビスティッチの場合、同時代に生きた人であった上、商売がら多くの文化教養人との親交も深く、フィレンツェの政変に巻き込まれ不遇不運を被ったと思われる人々への同情が強かった反面、そういった事の庇護者であった筈のコジモに対しては、存外冷静な目を持って見ていた風があるのです。
興味深い事ではありますが、他の書籍ではことごとくコジモの友人として扱われていたこの彼の書きしるした物を見るにつけ、どの様な思いを抱いていたのかを考えると酷く悩まされます。
パッラ・ストロッツィの項目を読むにつけ、その温度差があまりに歴然と分かるため、その後起こるメディチ家の災厄をどのような思いで眺めていたのか、恐ろしくもありますが知りたい所ではあります。
それにしても。
パッラ・ストロッツィがビスティッチの記した通りの人物であるとしたら、妬み嫉みはなんと恐ろしいものか。
彼自身、晩年は学術研究に没頭していたにも関わらず、フィレンツェの人間は彼の帰還を許しませんでした。
それは彼の人望に対する恐怖。
ストロッツィが戻る事によって、自らの立場が市民に支持されなくなるのではという疑念。
羨望と嫉妬は紙一重よりも薄い膜しか持たぬ、心の弱さのあらわれだという事に気付かぬ人々。
そして恐れ戦く人々は徒党を組み、罪なき人が罪を負わされる。
ビスティッチもストロッツィの事では、かなり感情的な文を書き連ねているので、よほど悔しかったのではと思われます。
自由に飛べた翼に傷を付けられた心
折れた翼に執着するか
飛べぬ世界を新たな住処として見据えるか
常に前を向いていればやがて新たな羽が生まれる
そう、在れるように。
詩人の自由と同様、物書きにも絵描きにも、ずっと続く自由あれかし。