新刊書店でも古書店でも、本との出会いは一つの縁。
自分で発見することもあれば、友人知人の紹介やら、読んだ本の資料として記載されていた事から知ったものも多くあり、必要な時にきちんと手元にやってくるのが不思議といえば不思議です。
中でも一番役に立っているマカーマートは、実は相棒が某書店の書評を発見したことから出会ったものでした。
相棒に感謝し、この著作を日本語へと翻訳してくださった先生には本当に感謝するばかりです。
今日は、そんなちょっとした資料探しのお話。
長たらしいので不要な方はスルーして下さい。
ネットで古書店との取引が出来る様になったため、以前よりも格段に資料を探しやすくなった昨今。
それでもやはり、自身の足で歩かなくては見つからない部分もあったりします。
で結局、近場の古書店や神保町界隈を徘徊したりするのですが。
神保町といえば覆麺というラーメン屋さんがあります。
会員タイムがある面白いラーメン屋さんなんですが、その会員証をゲットするのは食いっぷり。
相棒と行った初回に、ギブアップした男性客をさしおいてお店のお兄さんに認められ、いきなり会員証を貰ってしまったとか言ってみる。
どうでもいい話でしたスミマセン。
さて、何故歩く事が必要かというと、目当ての本を探す場合には検索などから漏れてしまうジャンルと、思いも掛けない出会いを果たす事があるからです。
本日もまたそうでした。
児童書のコーナーはあまり立ち寄らないのですが、以前通り過ぎた時に軽く眺めた折、ラフィク・シャミという作家の作品集に目がとまっていました。
シリアで生まれ、ドイツへ亡命した作家さんで、子供向けの物語を色々と綴った作品集が写真のカラフルな表紙の5冊。
もう一冊出ている様ですが、お店に無かったので別途探す予定です。
全てではないんですが、内容には多くアラブ関連の物語も含まれ、そこに生まれ育ち暮らす人々の考え方やしきたりやらが自然な形で織り込まれています。
これこそが資料としての重要な点。
学者先生方の翻訳される歴史的な資料と同時に、脈々と受け継いだその土地の血を持った人々の感覚が染み込んだ文章と接する事もまた貴重なものなのです。私にとってはですが。
ヤスミナ・カドラ氏やカーレド・ホッセイニ氏などの小説の様に、現在の中東の悲惨な状況を綴った壮絶な作品も翻訳が進み、以前よりは身近にあの地域の事を感じることが出来る様になっていると思います。
ただし作家が海外移住者という切ない状況を感じさせるのが何とも言えない所。
カドラ氏などは自国に居た頃は偽名を使って身を隠していたらしいので、執筆活動には様々な障害があったんだろうなあと想像できます。
学生時代、異文化コミュニケーションというゼミの授業を担当していた恩師の言葉が、今も心の片隅に残っています。
「どんなつまらない物でも、その国の人間が作ったその国が舞台の映画を見なさい。そこに彼らの生活や思考が見えてくるから」
ただし誇張されている場合もあるので、鵜呑みするのは危険な言葉なのですが、師の想いが充分に詰め込まれた言葉だと思っています。
そしてこれは映画だけに限った事ではないなと、時を経る毎に感じるようになりました。
物事はあるがまま見据えること。
それが出来る様になったのも、この師のお陰です。
資料を読みながら、あまり感情を差し挟まずに居られるのは大事な事ですから。
そういえば数日前に買い入れたバーナード・ルイス氏のアサシンに関する著作は1973年に日本語に翻訳されていました。
買った本の端書きを読んでいたら、日本語に翻訳されたとか書いて有ったので、何だと?と検索を掛けたら出てきました。しかし古書店検索にはノーヒット。
密林のマケプレに唯一1万円近い値段で出品されているだけでした。
洋書はそれに比べれば格安。その差額で他の資料が買えると判断し、日本語版には手を出さない事にしました。ちょっと足下見過ぎでは・・・ゲフゲフ
ここに書いてどれだけの方の目に触れるかは分かりませんが、書いておく必要があったので記しておきます。
私の本は巻末なりに参考にした資料や、その紹介者などの事を記載していますが、それらは以下の理由からです。
私一人の力ではとても知り得ない世界を一冊の本にまとめ上げて下さった諸先生へは、学びの機会を与えて下さった感謝と、膨大な時間と手間を掛けて作品を編纂した作業への尊敬の念を込めて。
相棒や友人には、同人誌を出す上で一人では出会いさえしなかっただろう資料の存在を教えてくれた事へのお礼を。
これらの存在が無ければ、思うような物語は書けませんでした。
それを改めてここに書いておきたかったのです。
これからも、これは続けていくと思います。
最後に。
資料は資料であるけれども、小説と変わらぬ読み物の一つだったりします。
文字の中に詰め込まれた世界を、知りうる限りの想像力を働かせて有り様を想像する楽しみは、小説でも歴史書でも哲学書でも変わらない。数学者にとって数式が美しい幾何学模様に見えるのと同様に。
そしてそんな風に本と接していると、不思議と自ずから探している資料たちが側に寄ってくる。
まだまだ読みたい本が沢山あります。
時間を、大切に使わないと。